1Tlソ連における地方白治
は じ め に
ソ連をはじめとする「社会主義」諸国が、マルクスがかつて想定したような意味で、さらにはレーニンの構想した
形においてすら、社会主義的、と呼びうるか否かは、今日では大いに議論のあるところであろう。そこには、マルク
五一
ソ連における地方自治
---その予備的考察
は じ め に
一歴史的経緯
二 今日の地方自治
お わり′ に
谷
聖 美
岡法(31-2)1丁2
五ニ
スやエンゲルスが「粉砕」すべきと主張してやまなかったものと同様の強大な軍事機構と官僚制組織が存在している。
ソ連の場合でいえば、七七年憲法によって同国は「全人民の国家」に発展したと誇らかに宣言きれているにもかかわ
らず、また産業や教育、科学面などでの驚異的な進歩発展にもかかわらず、依然として人々の自由な発言はおさえら
れており、民族閥の乱轢も伝えられている。経済、産業自体の面においても、その停滞傾向はソ連みずからが認める
ところとなっている。もっとも、この点については、ソ連型体制に最も忠実な国といわれている東ドイツにおいて、
一人当りの国民所得がイギリスを抜き、日本に迫っているという事実にも目を向けるなら、問題を単純にソ連型計画
経済システムの欠陥のせいにすることは許されないかもしれない。
しかしながら、今日では多くの点でソ連型「社会主義」とは異なる歩みを続けているユーゴの元利大統領ジラスの
(1)
指摘した「新しい階級」がソ連・東欧諸国に拾頭し、それが今回のポーランドにおける政治的混乱の大きな原因にもな
っていることは明白な事実である。そして、このような新しい階級の拾敢を促した基本的應因が、(岩田呂征氏の分革
を借用するなら) 「集権制計画経済」と、それを担う「国権主義的社会主義」あるいは「官僚制社会主義」というシ
(2)
ステムそのものにあることは論をまたないであろう。それは、政治体制としては、「集権的官僚支配国家」とでも名
づけることができるかもしれない。もちろん、政治過程論とならんで国家論を専攻するものとしては、このような規
定を与えるに際して十分な研究と配慮を要求されることはいうまでもない。しかし、一般的にいって、ソ連、東欧諸
国が有する上述のような特質が今日内外から頭要な問題点として取り沙汰きれていることだけは疑いないであろう。
ところで、これらの国について、集権的体制として通常問題にされるのは経済運営に関する領域である。そして、
市場システムに対して「集権的計画経済」の長短が論じられ、それとの関連で中央における国家および党曽鹿の力が
云々される。しかし、政治体制として考えた場合、単に繹済機構における集権制だけではなく、いささか性質を異に
するもう一つの集権制も重要な問題として存在しているように思われる。ではそのもう一つの集権制とは何か。それは
1丁3 ソ連における地方自治
地方分権、すなわち地方自治に対する中央集梅であるっソ連、東欧諸国はいずれも多かれ少なかれ政治機構的には強
固な中央集権体制を有しており、それが掃済機構の面における集権制と結びついて国家官僚および常官僚の支配力な
いしは指導力を支えているのである。おそらく、この点の重要性を明瞭に示している例の一つは、一九八〇年夏以来
自主労組「連帯」の運動によってともかくも民主化路線を歩み出したポーランドの場合であろう。すなわち、労働者
側の民主化要求に応えるために八一年七月一四日から始まったポーランド統一労働者党(共産党)の第九回臨時党大
会における基調報告のなかで、カニア第一書記(当時)は「開かれた社会」を強調し、とくに非党員でも国家の重要な地位
につくことができるようにすべきだと述べるとともに、中央梅力は必要以上に地方権力に対して力をもつべきではな
(3)
いとして、地方自治の拡充を強調したのである。ところがポーランドの民主化をよしとしないソ連は、ソ連共産党機
関紙「プラウダ」におけるカニア第一書記の演説の報道において、これらの点をすべて削除し、自国民に対して民主
(4)
化の具体的措置を隠蔽してしまったのである
現代「社会主義」諸国における地方自治-1地方分椎問題の重要性を示すもう一つの例はユーゴスラヴィアの場合
であろう。周知のように、同国はさまざまな問髄をかかえながらも自主管理型の独特の社会主義をめざしている。再
び岩田昌征氏の分類に従って「ユーゴ型社会主義」を「ソ連型社会主義」と対置させてみるなら、経済機構的には前
者は「市場社会主義」、後者は「集権制計画経済」、経済機構の担い手の面からみればそれぞれ「労働者自主管理制
へ5)
社会主義」と「官僚制社会主義」ということになろう。しかし、ユーゴの場合、たんに経済機構の面における分権だ
けでなく、中央-地方関係における分権をも進めていることは意外と知られていないのではなかろうか。すなわち、
ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国忍法第二六条は、同連邦における地方自治体たるコミューンについて、「コミ
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
ユーンは、勤労階級とあらゆる勤労人民の権力及び自主管理にもとづく、自主管理コミュニティであり、社会化政治
(6)
、、、、、、、、、
の基本的コミュニティである」 (傍点筆者)と定めて、地方自治の保証とその重要性を明確にうたっているのである。
五三
岡法(31-2)174
五四
以上のように、肯定的に捉えられているにせよそうでないにせよ、現代の「社会主義」諸国において地方自治-地
方分権の問題は無視しえない位置を占めている。しかるに我が国においては、現代「社会主義」諸国の政治学的研究
一般がまだ乏しいこともあって、そこにおける地方自治の研究はごく散発的に行なわれているにすぎない。そこで筆
者は、一つには比較地方自治研究の一環として、他方では社会主義における分権と集権という大テーマについて研究
を始める出発点として、とりあえず利用しうる資料に頼ってできる限りソ連の地方自治の全体像を自分なりに描いて
みることにした。これが本稿の意図するところである。とはいっても、既存の研究は邦文のものだけではなく英文の
ものも決して多くはない。加えて筆者のロシア語の能力はぜロに近く、元来が乏しいらしい公式資料をほとんど活用
できない。したがって、本稿の目的はあくまで目的として、実現しうるところはきわめて限られたものとならざるを
得ない。本稿の副題に「予備的考察」と書いた所以であり、誤りや足らざるところについては、大方の御批判とさら
なる研究の出現を期待するとともに、今後みずからも研究を深めてゆきたいと考えている。
(1) Mi-○昌n Dj-as、The New C-ass、-誤↓.reprin{ed in-実の.The Umperfec{ SOCie{y.-莞寧
(2) 岩田昌従『労傲者自立管理』一九七八年。
(3) 朝日新聞、一九八一年七月一六日。
(4) 右同、一九八一年七月一八日。
(5) 岩田、前掲書一五頁。
(せ 訳文は、国立国会図書館調査立法考査局『ユーゴスラビア社会主義連邦共和国憲法』昭和五十五年、によった。ユーゴの地
方自治については、さしあたって次を参照。石川晃弘「ユ㌧コスラグィアの地方制度と住民自治」磯村英一編『現代都市の社会
学』昭和五十二年所収。Eugen Pusic.jn{en{iOnS and Rea≡ies‥LOCa-GO詔rnmen{ in YugOS-aまa㌧} Pub-ic
Administra{iOn-く○-.∽ぴ--当戸 山下茂・谷聖美『比較地方自給論』一九八二年、第二部。
なお、政治体制における組織原則と経済体制の組織原則との間には密接な関係が存在するという点については、次の論文が示
唆を与えている。田口富久治「先進国革命とその国家体制」 『世界』第三六八号、一九七六年。
ソ連における地方自治 1TS
一 歴史的経線
ソ連における地方自治の歴史を考える場合、そこに説得力のある時期区分を設けることば、現在の研究水準におい
ては不可能であろう。特にスターリン死亡前の地方自治 - 地方ソヴュトの実際の在り方については、推測すらつき
かねる部分が多い。したがって、本稿においてスターリン時代の終わりをもって一つの区切りとしたのは主として便
宜上の措置にすぎないが、しかし、いうまでもなく大戦後の広範な復興、再延の時期に、スターリンの死去に起因す
る大きな体制的転換-1それは必然的に制度改革ないしは制度運営手法の変革を伴う - と相侯って、ソ連における
政治システム全般の変化が訪れたと考えることもそれほど無理なことではないであろう。事実次節でみるように、地
方ソヴェトの領域でも戦後の混乱が一応落ちついた一九五〇年代半ばごろから、徐々に変化の動きが始まり、それが
七七年憲法における地方自治の少なくとも条文上の強化にもつながってゆくのである。こうして、スターリン時代の
終焉をもって一応の区切りとすることにはそれなりの理由がないわけでもないのである。
これに対して十月革命からスターリン時代の終わりまでを一括して扱うのは、筆者の現在の能力がよりこまかな時
期区分を無意味にしているからというよりほかはない。したがって本章では、主として限られた先学の業績を要約・
紹介するという形で地方自治の展開があとづけられることになろう (なお、本文中のロシア語音読はできるだけ原語
に忠実な形で行なうが、ヨeH巨rpab をレニングラードと読むがごとき、慣行的表記が一般化している場合にはそれ
に従う)。
さて、ソ連邦初期の地方制度問題を考えるにあたっては、二つの相矛盾する傾向に留意する必要がある。すなわち、
一方でレーニンたちは、新しい国家(ここでは、特殊レーニン的に理解きれた、階級的抑圧機構としての国家では
なく、もっと一般的に、一定の地域社会全体を対象とする組織一般として用いる)を編成する基本原理として、マル
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岡法(31-2)1丁8
<第1図> 帝政ロシア末期の地方制度
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ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
クスが考えたような諸コミューン (形式的にいえば、これは自治体である) の自発的かつ統一的な連合体という方式
(7)
の実現をめざしていた。しかし、他方で、ロシア革命はかなりの地方での革命の総体という一面を見せつつも、全体
としては都市部の革命であり、地方農村部の自発的な革命はごく部分的なものにとどまった。この理念と現実のずれ
は、ソヴェト政権の基本路線をめぐる深刻な意見の対立を惹起し、さらにはのちのスターリン体制の形成とも深′\か
県(グピエールニャ)
県会(ゼームストゥヴァ)
県市(グピエールン スキ・ゴーラト) 郡(ウイエースト)
郡会(ゼームストゥ ヴァ)
市会(ドゥーマ)
郡市(ウイユズドヌ イ・ゴーラト) 郷(ヴォロースチ)
郷会(スホート) 市会(ドゥーマ)
村(セ ロ ー)
面轟套1毒す云享二 ・スホート)
(1)上段が各単位の名称。下段は自治機関の名前。
(2)村については地域によって呼称は多様。
かわるものであったが、それだけに地方の自
治をめぐる中央権力の姿勢にも複雑な影を落
としたのであった。
一九一七年の十月革命が始まったときに存
在していた地方制度は、臨時政府による多少
の手直しにもかかわらず、基本的には帝政時
代のそれであった。それは大体において戦前
の我が国の地方制度やフランスのそれに類似
したものであった。すなわち、上級レベルの
地方団体は同時に中央の出先機関としての性
格が強く、都市と農村の基礎的自治体を統治
していた。これに対して最末端のレベル、と
くに農村では伝統的な共同体的自治が支配的
(8) であった。今、これをおもに渓内教授の研究
に基づいて図式化してみると第一図のように
1乃 ソ連における地方自治
なる。
「すべての権力をソヴュトヘ」というスローガンは、たんに中央レベルでの政治権力にのみ関するものではなく、こ
のような各級地方機関の権力を、それぞれのレベルで組織きれた、あるいはされるべき地方ソヴェトヘと奪取する
ことをも内容としていた。したがってこのような文脈で語られるソヴュトとは常に複数形であることに注意せねばな
(9)
らない。そしてこの理念は、大部分の農村---当時のロシアは圧倒的に農業国であった ー を別とすれば、現実の社
会主義革命の歩みともある程度合致していたのである。すなわち周知のごとく、十月革命はたんにレニングラードに
おける臨時政府権力の打倒をもって成功したのではなく、主として既存の自治単位における地方ソヴェト政権が軍隊
や生産単位におけるソヴェト権力を背景として実権を握り、それが全ロシア・ソヴュト大会へと結集することによっ
てはじめて一応の完成をみたのである。さもなければレニングラードにおける蜂起は、マルクスがパリ・コミューン
(10) についてあとになって述べたように、「例外的条件のもとでの一都市の反乱」に終わっていたであろう。
以上のような理由により、十月革命の結果出現した新しい国家は、形式的には共通の中央政府を有する、実質的に
は独立性の強い諸々の地方ソヴェトの集合体であったといえよう。したがって当然のことながら地方ソヴェトの自律
的な行動という傾向が強く、各ソヴェト内部の機橋的特質や方向もさまざまであった。それは一面からみればまさし
く地方的多様性の自由な展開であるが、仙南からみれば地方の分離主義的、遠心的傾向でもあった。つまり、諸コミ
ューン (ソヴェト) の白発的統一というコミューン国家の理念は、必ずしも地方の側からの動きによっては実現され
なかったのである。そしてそのことは、革命後の内圧外圧に抗して政権を保持しようとしていた中央政府にとって急
激に障害化してこざるをえない。こうしてあくまでコミューン国家の理念に忠実たらんとする分権派と、厳しい現実
を前にしてその理念を修正せんとする集権派との対立がおきるようになり、前者は後者によって圧倒されていく。レ
ーニンが現実主義的な集権派に属していたことはいうまでもない。一九一七年から一八年にかけてのこの問題に閲す
五七
岡法(31-2)1丁8
五八
る彼の発言におけるトーンの変化がこの間の中央政府の姿勢の変化を明瞭に物語っている。
すなわち、十月革命直前に苦かれた『国家と革命』のなかで、レーニンは「自発的な中央集権制度、コンミューン
(11)
、、、、、 の国民への自発的統合、……プロレタリア的コンミューンの自発的融合が可能(傍点筆者)」だと強調している。し
かし権力奪取後の一九一八年二月になると、人衆の参加から、決定の正確な執行、組織規律の強化へとウェイトが移
ってくる。「真に民主主義的な意味に理解きれた中央集権制は、地方的特性だけでなく、地方的発意、地方的創造、共
通の目的をめざす運動の多種多様な方途、方法および手段をも完全に、支障なく発展させるという、雁史によっては
じめてつくりだされた可能性を前提とするものである。」 「しかも同時にわれわれは、民‡エ義的諸機能の二つの部類
を、厳密に区別しはじめなければならない。すなわちそれは、一つは討論、大衆集会であり、もう一つは、執行機能
にたいするもっとも厳格な責任制の確立と、経済機構がまったく時計のように働くようにするために必要な、命令と
指図の、無条件に勤労による、規秤ある、n発的な遂行である。」「この現在の時機には、討論と大衆集会を、指導者
(12)
のあらゆる命令の文句なしの遂行ときわめて厳密に区別することが、当面の任務としてかかげられる。」直接には経
済機構の運営をめぐって強調きれたこの「意志の統一」、「単独指導者の自発的な管理遂行」の強調は、多かれ少な
かれ地方自治の領域にも妥当するものとして語られていたのである。そのことは具体的には先に引用した論文草稿が
善かれた二〇目後、財政問題をめぐる演説のなかでより具体化きれた形をとってあらわれる。「もしわれわれが、な
んらかの課税を実施しようと試みるならば、われわれはすぐにも、個々の地方が現在、それぞれ思いつくままに、課
(13)
税を実施するという事態にぶつかるであろう云々。」そして五月には明確に財政の中央集権化が打ち出きれる。「わ
れわれには財政の中央集権化が必要であり、われわれの勢力を中央に集中することが必要である。」 「中央集権制は、
勤労大衆に一定の物質的保障をあたえるための最小限の要件であると、私は考えている。私は、地方ソヴュト組織に
もっとも広範な自治をあたえることに賛成であるが、それと同時に、国の意識的な改造のためのわれわれの仕事を実
1T9 ソ連における地方自治
りあるものとするためには、統一的な、厳格に規定された財政政策が必要であり、命令が上から下まで実行されるこ
(14)
とが必要であると、考えている。」レードリヒたちが指摘した近代国家における中央集権と地方分権との「基本的対
(15)
立」の調整という課題は、新生ソヴュト国家もまたそこからのがれることのできないものであったといえよう。
結局以上のような中央集権化へのトーンの変化は、たんに財政の領域に限られず、地方ソヴェトの中央政府への広
範な従属という形をとって一九一八年憲法のなかで定式化されるに至った。そもそも忍法によって地方ソヴュトの内
部構成に至るまで統一的、画一的な規定が設けられたということ自体、そしてそれを上から全国におし広めようとす
ること白体、諸々の地方ソヴェトの「自発的融合」というコミューン国家の理念とは鋭く対立する側面をもっている
(16) といえるだろう。同意法では、壊末端の白治機関として巾、町(入口五千人以上の小工業都市)、村の各ソヴェトを
配し、それぞれ有権者によって直接選挙されるものとした (但し、都市のなかには、ソヴェトが成立せず、児の直轄
とされたものもある) (五四条の二の二項、五三条の備考)。ただし、農村部に存在してきた小自治単位については、
同憲法もあえて呼称を統一することはせず、また、農村部では、革命勢力の影響力の低さ=伝統的共同体自治の存続
を反映して、ソヴュト制をとらず、選挙人総会で代位することが認められていた (五七条備考)。より上級の単位
たる郷、郡、県には、間接選挙にもとづくソヴェト大会が措かれることになったが、その代表比率は巾や小工業都市
の町、遠隔地の居住地外にある工場は農村の二・五倍であり、労働者階級に有利になるように定められていた(ソヴ
ェトをもたない県直属の巾も農村なみの代表比率におさえられた) (五三条)。ここで、ソ連における壊初の地方制
度の枠組を図示するなら、第二図のようになる。この図から明らかなように、それは基本的に帝政ロシアの地方行政
制度を踏襲するものであった。なお、中央、地方を問わず、ソヴェト、あるいはソヴェト大会は一定期間しか開かれ
ないため、執行委員会を選山することが定められ、とノ\に郷、郡、児においては (そして中央レベルでも)、大会と
大会のあいだにはこの執行委員会が最高機関となる旨規定されていた (一二条、五六条の一の一)。
五九
岡法(31-2)180
<第2図> 初期のソヴェト制度
〈-→全ロシア・ソヴュト大会
中 央執 行委 員会
ソヴェトのない市
‾‘‾-郡ソヴェト大会こ
i執行委員会
郷ソヴェト大会
執行要員会
村ソ ヴ ュト
執行委員会
市ソ ヴ ェト
執行委員会
町ソ ヴ ェト
執行委員会
(1)矢印は選出の方向をきす。
(2)シベリアなどでは、県のかわりに州がおかれた。
181ソ連における地方自治
こうしたなかで、中央と地方との関係については、はっきりと上下関係にあることが定められた。すなわち、ソヴ
ェトやソヴェト大会は、いそれぞれの上級ソヴュト権力機関のすべての決定の実施、∽あたえられた地域を文化的、
経済的に向上させるため、あらゆる措置をとること、佃(その地域にとって)純粋に地方的な意義をもつあらゆる問
題の解決、印その地域内におけるすべてのソヴュト (下級ソヴェトや工場ソヴェト)的活動の統一、を自己の管轄と
することになった (六一条)。しかも、上級ソヴェト大会、同執行委員会、全ロシア中央執行委員会あるいは同幹部
会は、地方ソヴェト大会の決定を取消すことができる (六三条の一) などの規定が盛り込まれていた。さらに、財政
面についても、憲法は、一方で「もっぱら地方経済の必要におうじて」地方税を徴収する権利を地方ソヴェトに認め
つつ (八一条)、同時にその予算書は上級ソヴェトまたは全ロシア・ソヴェト中央執行委員会および人民委員会議の
承認を要するものとしていた (八六条)。
一八年嵩法は、その内部にかなりの矛盾点や曖昧な部分を含んでいただけでなく、おりからの経済的困難や内戦の
なかで、その実効性自体が大きく制約されたものとならざるを得なかった。そうしたなかで、中央集梅化の傾向は、
実際には憲法の規定を超えて進行することになる。
一九一九年から二〇年にかけての内戦は、生まれたばかりのソヴェト社会に深刻な影響を及ぼした。本稿との関連
でいうなら、それは各分野での「軍事化」を含む中央集権化の一層の昂進であった。まず第一にポリシェヴィキ党内部
が軍事化され、中央集権化された。「民主集中制」が組織構造全体の「指導原理」になり、「言うなれば、同じ共産
(17)
党員のあいだに、下が上の『上級』地域委員会に従属する位階別ができあがったことになる。」次いで労働の軍事化
が論じられ、先に引用したレーニンの主張にあるように、単独責任制が各方面で進行した。それはソヴュトをはじめ
(18)
とする国家組織をも例外とはしておかなかった。そこではまずもって、代議機関に対する執行機関の完全な優位とい
う状態がうまれた。地方において実際の権力行使は執行委員会(イスポルコーム) に集中するようになる。そして次
六一
同法(31-2)182
六二
に、下級レベルの執行委員会は、上級レベルの執行委員会に垂直的に従属するようになる。さらに、反革命勢力の手
から軍事的に解放された地域や軍事行動が行なわれている地域では、任命制の革命委員会がその地域の室口同権力機関
となり、地方ソヴェト機関が再延きれても、それはもはや革命委員会の支配を受ける存在でしかなかった。
このような、執行機関への権力集中、上級機関への権力集中という二つの流れは、「二重の従属」という名称のも
とに公認される。地方ソヴェトの各行政機関が、自己の遠出、任命母体と、上級レベルの機関との双方に従属すると
いうものであるが、実際にはあとの方の従属関係を正当化するものにすぎなかったといえよう。しかし、この時期、
もう一つ集権化が進んでいたことに注意する必要がある。それはソヴェト全体から共産党 (一八年三月、ポリシェゲ
ィキ党はロシア共産党と改名) への実権の移行であった。一八年七月のエス・エル左派排除によって唯一の組織され
た政治勢力となった共産党は、自己の支配を完全なものとすべく、ソヴェトのなかに党員からなる「フラクション」
をつくった。そのフラクションは、所属の党委員会の指導に従わねばならなかった。そしてその党は、すでに述べた
ようにやはり強力な中央集権化の過程を経ていたのである。覚と国家組織は次第に融合するようになる。
このような一連の過程は、確かに外圧と内戦という非常事態が直接の契機となったものであり、どこまで共産党-
ポリシェゲィキの本来の考え方に内在するものであったかは、ここでは問わない。ただ確実にいえることば、これま
で指摘してきた三重の集権化という傾向は、内戦終結後も基本的には修正きれなかったということである。こうして
(19)
「時をへるとともに、ソヴェトは儀礼的、形式的な存在に変わり、共産常による民衆の指導機関となっ」ていく。そ
してネップ期において進んだ集権体制の強化と「発と国家の相互浸透の傾向」のなかから、党官僚の元締めとしての
(20)
書記局が急速に勢力を増してくるのである。いうまでもなく、一九二二年その書記長に任命され、地方書記クラスを
はじめとする党官僚を掌握して自己の政治的基盤を固めていったのがヨシフ・スターリンであった。だが、スターリ
ンの権力掌擁にともなう地方自治の変貌について触れるまえに、二〇咋代に本格化した地方行政単位の再編成につい
183 ソ連における地方自治
て述べなければならない。
そもそも、ロシア革命によって生まれた体制は、計画化による経済の人為的、合理的コントロールをめざしていた
ことはいうまでもない。そこには当然規模や地理的条件に対する合理的接近という考え方が伴っている。この経済的
合理性という考え方は、地域の問題との関係では、いわゆるリージョナリズム (広域制)の主張となってあらわれる。
それは、革命後数年間は、厳しい内外状勢と新しい行政区画をどのように設定すべきかについての論議の不十分性な
(21)
どのために棚上げにされてきたが、内戦が終了し、新経済政策もまがりなりにも軌道にのりはじめると、リージョナ
リズムを実行すべしという気運は急速に盛り上がっていった。すでに一九二〇年二月、新しい行政区画を計画立案す
るために行政委員会が設立された。しかし、この委員会は、農村の状況からして行政区画の拡大に消極的な態度を示
(22)
した為に、単一の経済計画を推進しょうとするレーニンたちは、リージョナリズム問題の扱いを経済機関の手に移し
ていった。こうして第八回全ロシア・ソヴュト大会は、行政区画の再編成を「経済的親近性」という基準にもとづい
ておこなうことを決議し、二一年二月の国家一般計画案民会(ゴスプラン)設立決定とともに、行政区画再編成は、
全面的計画化の実現のための基礎のひとつとして、同委員会の所轄にはいっていった。
以上のような経緯から、新しい行政単位は、計画化という観点からみた経済合理性をその存在根拠とすることが求
められた。しかしながら、このような要請は少なくとも当時の状況では、依然として共産党の影響力を大部分退けて
いる農村共同体の自治権力や諸民族による自立の要求と必然的に衝突せざるを得ないものであった。結局、拝済合理性
の原則は妥協を強いられ、二四年から徐々に新しい地域制が導入きれていった。それは一九三〇年に全国一律の制度
(23)
として完成した。一口にいうなら、この新しい制度は、児の合併によって州(オーブラスチ)を、郷の合併によって
地区(ライオーン) をつくりだしたものだということができる。シベリアや極東など人口稀薄の地には、事実上州と
同格の道(クライ)がおかれ、また州や道の一部には民族別の自治州(アプトノームナヤ・オーブラスチ) や民族管
六三
岡法(31-2)184
六四
区(ナツィオナリヌイ・オークルク) なども配置された。しかし基本的には州 - 市・地区- 村という三層の各単
位がそれまでの県や郡の制度にとってかわったといってよいであろう。そしてこの新しい地方制度の枠組は今日に至
るまで維持されるのである (各単位間のより詳しい関係については、次章第三図を参照)。特に地区は「経済的行政
区画編成」の一環として市とともに地方行政の戦略的拠点とみなきれ、従来の郷よりも大きな地域的、人口的な基盤
を与えられた結果、農村部における党、ソヴュト等の機関にそれまでよりも強力な行財政的、組織的能力を与えるに
(24) 至った。
だが、このような広域制の導入は、それが工業化計画の一環とされた以上、明らかに都市的な、すなわち農村の利
益とは矛盾する側面をもっていた。そして人口の八剖近くが農民であった当時において、農村問題こそはボリシェビ
キにとってソヴュト体制の死命を制するものであった。農村の大海こそはその共同体的自治の伝統をもってプロレタ
リアアート独裁の前に宜ち塞がり、レーニンをして「社会主義政府は、中農 (それは事実上農村共同体そのものであ
(25)
った - 筆者注) と協定する政策をとる義務がある」といわしめたものであった。その「協定」を破った戦時共産主
義がソヴュト体制に深刻な危機を与えたことは周知の通りである。したがって広域制という一種の中央集権化につな
がりうる政策の導入にあたって、中央政府は慎重な態度を示すとともに、他面では農民の政治的権利を大幅に拡大し、
農村ソヴュトヘの彼らの積極的参加を認めることによって農民の体制内化を試みた。これがソヴュト活発化政策とい
(26)
われるものである。こうして二四年以降末端における地方自治は強化されるに至ったが、今度はそれがソヴュトの
(27)
「農民化」というジレンマをうみ出すに至った。そしてこのジレンマが一九二八年の穀物調達をめぐる危機のなかで
尖鋭化したとき、すでにほとんど実権を握っていたスターリンによって採用されたのが問題の所在自体の消去、実力
(28)
行使による農村共同体の解体=農業の集団化という万策であった。
この「上からの革命」は、伝統的自治の強権的破壊であったが故に、その後に来るものは極端な中央集権的体制と
185 ソ連における地方自治
ならざるをえなかった。もちろん、かかる集権化は、すべての反対派が敗北、解体したあとでの、スターリン派の組
織基盤たる党機関による覚そのもの、そして労組や中央-地方のソヴェト、言論機関等々一切の直接的支配の完成と
いう意味で、たんに地方自治の分野においてのみ重要であったのではない。この新しい体制はそれ以前の中央集権主
義体制とは (完全にとはいえないにしても)質的に異なるものであった。「党機関の党支配と党機関による党外組織
とくに国家機関の直接的支配とは、相補的に進行」し、超越的権力としての党機関による政治、社会の全領域に対す
(29)
る支配が完成する。それは一九三〇年の第一六回党大会においてすでに明確な形をとっていたといわれる。地方自治
の分野においては、とくに三六年冠法 (スターリン憲法)制定以後、地方ソヴェトは事実上その存在意義を失ってい
ヽヽ
った。それにかわって地方統治の実権を握ったのは党機関とその指令のもとに活動する巨大な官僚機構である。企業
(30)
において単独の企業長が上意下達式に命令を下すように、「党の書記が州全体または地区全体の中心」になり、憲法
(31)
の規定にもかかわらず会期がきても召集されないソヴュトの数が多くなった
結局、広域制の採用によってその財政的基盤を強化されたかにみえた地方ソヴュトは、スターリン体制の確立とと
もにその白治的性格を極限にまで圧縮きれてしまったのだといえよう。自治共和国や州、自治州、民族管区、市、地
区等々といった地方制度の多様性も、結局は強固な官僚制機構の地方行政区域をさすものにすぎなくなった。今や
「行政機構は、上級行政レベルの対応団体への各地方団体の位階制的従属を基礎にして、いたるところで画一的であ
り、きびしく中央集権化され、各団体はなによりも執行的任務をもち、理論上はその発現の母体である選挙機関(ソ
ヴュト) によりもむしろ中央にその活動上の責任を負うものであった。このことは、ソ連邦の最高立法機関である最
(32)
高ソヴェトにまであてはまることであった。」 このような状態が第二次大戦をはさんで、一九五三年のスターリン死
去まで続いたのである。
六五
岡法(31→2)186
(21)一九一八年嵩法六三条のrは、「交通の便によってむすばれ、密接な経済関係をもった隣りあわせの児を合併することによ
って、県執行委員会の数をへらすことが必要であるとみとめる。すくなくとも第一回定例会期で、このような合併の具体的な決
定を承認するよう、全ロシア巾央執行委員会に委任する。」としている。しかし、その趣旨が実行に移された形跡はないようで
ある。
ー ンを原型とするものとしての「国家(複数)-コミューン(複数)」rOCybapC↑Ba責○…-yHb-という表現を用いている点であ
る。これに対して労働者代表ソヴュト共和国pecコyn白票a COBeTOB bOBep舛yのような場合には、ソヴュトは常に複数で用
いられながら、共和国は単数形である。つまり、コミューンあるいはソヴュトの自発的、意識的集積としての新しい共和政休は、
連邦的なものではなく統一的な、したがってその意味での中央集権的なものでなければならないという基本理念がどの場合でも
貴かれているのである。もっともあとで述べるように、この基本理念の具体化されたありかたについてはそれほど明確ではない
のであるが。B・〓● ヒ爪H≡,コ○臼HOe CO甘aH完 CO貞HeH賢 己恕H完 コヨOe,-岩P T・♯芦 cTp◆--†HP
(10) マルク・スエンゲルス全集(大月書店版)一三一頁。
(11) 前掲邦訳七八頁。
(12) 「論文『ソヴュト権力の当面の任務』の最初の草稿」 『レーニン全集』 (大月書店刊、第四版を原本とするもの、以下同じ)
第二七巻ニー〇頁1二l六貢。
(13) 「全ロシア中央執行委員会での財政問題についての演説」右同、二三三頁⊥一三四貢。
(14) 「ソヴュト財務部代表者全ロシア大会での報告」右同、三九三頁。
(15) J.Red-ich and F.W.Hirst-The HistOry Of LOCa-GO完rnment in Eng-and.-害○-edited by B.
Keith・Lucas.-爪示∞.P.-〕チ
2019181716
稲子恒夫『ソビエト国家組織の歴史』昭和三九年所収の一九一八年憲法邦語訳による。
G・ボップァ『ソ連邦史』 (坂井信義、大久保旧男訳)第一分冊、一九七九年、一七一貢。
この時期の中央集権化については、次を参照。ボップァ、石岡、一七二貢1一七五貢。渓内、前掲書六三頁1七三貢。
尾鍋輝彦『二十世紀』第六巻、一九八一年、ニー八貢。
G・ボップァ、前掲書一九八白-二〇〇頁。
レーニン『国家と革命』一九一七年、(芋高基輔訳岩波文庫版) 七八日-七九頁。
渓内謙『ソビエト政治史』一九六二年、第一章第〓聖
これに関して興味深いのは、レーニンが四月テーゼのなかで、ポリシェゲィキが追求すべき国家形態として、パリ・コミュ
18丁 ソ連における地方自治
二 今日の地方自治
今目におけるソ連の地方自治について語るにきいしては、外国一般の地方白治について語る場合と同様、まずもっ
てその制度的枠組から始めるのが適当であろう。日本の府県や市町村に相当するソ連の地方制度の階層的構造は、す
でに述べたように一九二〇年代の末に完成した州や地区、市を中心とするもので、それは三六年憲法、七七年憲法を
通じて変わっていない。もっともソ連における各級ソヴュトの種類や相互の関係はかなり複雑でどれとどれを西側諸
六七
(警 レーニンは、ニー年二月二十二日付プラウダに「単一の経済計画について」という一文を寄せ、「国民経済全体の科学的立
案」を強調している。そしてロシアにおいて初めて単一の経済計画を作成したロシア電化国家委員会(ゴエルロ)の活動に賛辞
を呈している。『全集』三二巻一四〇頁-一四九貞。ゴエルロの活動は第八田全ロシア・ソヴュト大会においても賞賛を受けて
いる。『全集』三一巻五四〇頁。
(23) 渓内、前掲要一八九貢守一九五頁。ボッフ7、前梅吉l一九八貢十二九九貢。
(24) 渓円謙『スターリン政治体制の成立』第一部、一九七〇年、七〇四頁-七〇八貢。
(25) 「労農同盟について、すべての労農兵代表ソヴュトにあてた電文の草案」 『全集』二八巻五〇頁。
(26) 渓円『ソヴュト政治史』第四番。
(27) 右同、第五黄。
(28) 農村における危機の激化と、それに対する穀物の強制的調達という非常措置の採用が、急速に加速化して遂には富農絶滅、
農業の強権的集団化に至る過程については、渓内教授の詳細な研究がある。『スターリン政治体制の成立』第一部から第三部
(第二部は一九七二年、第三部は一九八〇年刊行)。
(29) 右同、第三部三三一頁1三二四頁。
(30) ポッフ7、前掲書第二巻一〇九頁。
(31) 稲子、前掲書六二貢。
(32) ボッフ7、前掲書第二巻三三一頁。
岡法(31-2)188
六八
国の地方自治体に相当するものと考えればよいのかは必ずしも自明ではない。したがって、本稿ではソ連邦最高ソヴ
(33)
ェト幹部会発行の『ソ連邦行政地域区分』によりつつ大まかな説明を加えることにする。
周知のようにソ連はいくつかの構成共和国よりなりたっている。その数は過去何回かの変動を重ね、一九五六年に
それまでのカレロ・フィン共和国が自治共和国に栴下げされて以来一五の共和国がソ連邦に結集している。各共和国
はそれぞれ独白の忍法を有し、連邦怒法によって一応は連邦からの離脱権や外国との条約締結権などを有している。
しかし、こうした共和国の有する主権はそれほど実質をともなうものではなく、ロイ・メドヴェーデフが指摘してい
るように、ソ連邦からの分離の手続はどこにも定められていないし、そもそも分離の‡張白体が (レーニンの教えに
(34)
反して)抑圧されている。もっとも、少なくとも今日のソ連で各共和国の民族的自主性が完全に否定されていると考
えるのも不自然であろうが。この連邦構成共和国の内部に中規模の民族のための自治共和国があるご」れは形式的にも
外交権が与えられていないが、おおむね共和国に準ずるものである。このほか、さらに小さな民族のためには自治州、
民族管区(七七年からは自治管区) がある。この最後の二つは民族的同一性にもとづいているという以外はこれから
(35)
述べる上級自治体とはば同じものと考えてよいようであるが、本稿ではあまり立ち入らないことにする。
さて、地方ソヴェトとして分類されうるもののなかで、(日本の府県が市町村の上位にあるという場合のような便
宜的意味で)最上位に位置するのが州 (オーブラスチ) である。ただし、アゼルバイジャンやリトワニヤといった小
きな共和国はこの単位を有していない。また、ロシア共和国のみは、シベリアなど人口稀薄の地に州にかわって道
(クライ) という単位をもっているが、これは、既述の自治州を含んでいるほかは州と同じものと考えてよい。また、
大都市のなかには州と同格の地位をもつ共和国直属市(ゴーラト・レスプブリカンスコーガ・ボデチィニェニャ)も
ある。共和国直属という意味は、たんに共和国と市とのあいだに介在する行政単位が存在しないということ以上のも
のではない。ロシア共和国ではモスクワとレニングラード、ウクライナ共和国ではキエフとセヴ7ストポーリの両市
1日 ソ連における地方自治
がそれで、他は大体共和国の首都がこの地位をもっている。
次に、各州(道も含める、以下同じ) は七四年改革までのイギリスの自治制度がそうであったように、都市と郡部
の二系統の地方ソヴュトに分かれている。これはヨーロッパ世界に根強い都市と農村の相違を強調する考え方の表れ
といえるが、より直接的にはロシア革命が何よりも都市=労働者階級による革命であって、郡部=農民は良きにつけ
悪しきにつけ革命による統治の客体であったという歴史的経緯に由来するものであろう。まず都市は、その規模や重
要性に従って、先述の共和国直属市、自治共和国直属市、州直属市、地区直属市に分けられている (その他、自治管区
の設けられているところでは管区直属市がある)。市(ゴーラト) はそれ自体で完結した、下位の自治単位をもたな
い場合が大多数であるが、大都市のなかにはさらに区(ライオーン・ガラダスコーイ) に分かれているものもある。
この区も独白のソヴュトをもつれっきとした自治体である。たとえばモスクワは二九、キエフは一一の区を有してお
り、北極海に面した港湾都市ムルマンスクのようにたった二つの区に分かれているだけの場合もある。なお、区はさ
らに小地区(ミクロライオーン) に分かれているが、これは都市計画あるいは都市行政上の単位で、独自のソヴュト
(36)
は持たない。区の人口や面績、産業構造などにはあまり統一性はみられないようである。
これに対して共和国、自治共和国、州、白治州、自治管区各直属市以外の地域はすべて地区(ライオーン、七四年
改革前のイギリスのカウンティに相当) に分かれている。地区も独自のソヴュトをもっている。この地区は、第一葦
で述べたように、元来は計画経済における便宜性という理念から考え出されたものであるが、現実にはその面積も人
(37)
口もまちまちのようである。地区には、もし小さな地方部市があればこれが地区直属市として属するほか、工場と従
業員団地などからなる労働者居住区(ラボーチエ・ポセールク) または一般に都市型居住区(ポセールク・ガラダス
コーガ・ティパ) といわれる、やはりそれ自体ソヴュトをもつ小さな町が属していることもある。しかし一般には地
区には多数の村ソヴュト (セリソヴェト) が属している。
六九
岡法(31-2)柑0
七〇
以上がソ連地方制度の概略であるが、このはかにも、たとえば共和国直属市のなかにはいくつかの市や労働者居住
区をかかえているものがあり、また、一般の市のなかにも集落ソヴュト (セリスキー・ソヴュト) をかかえているも
(38)
のがあるなどのケースもみられる。しかし後者はごく少数の例外的ケースであるから、ここでは一応度外視すること
にして、ロシア共和国の場合を例としてこれまで述べてきたことを図にしてみると第三図のようになる。
<第3図> 今日の地方別度
卜連邦
自治共和国1州(道) 共和国直属市
(1)
区Fl州直属市l地 区
(Ll)
】
共和国直属市直属の市
(4)
労働者居 住区 l地区直属可
(3) (3)
(1)1957年から64年の間、州は地域層済会議(ソフナルホーズ)
として工業州と農業州とに内部的に分割きれ、地区は農業州
に属していた。
(2)すべての直属市に存在するわけではない。
(3)すべての地区に存在するわけではない。
(4)すべての共和国直属市や区に属するわけではない。これらは、
我が国の東京都と都内の市町村の関係に似たものと考えられ
る。
*自治州、自治管区(旧民侯管区)は省略
101ソ連における地方自治
<表1> 共和国別の地方ソヴュト編成
白民 地 市
道 治
国 国州区 区 区自 連分治 雲憲 H 984
ウクライナ ー ロ シ ア 16 5 10 6 49 1775323 477109392 524 460 1;喜:2…;…至 25 117 275
ベロルシア ー 6 117】 16 95 33 62 110 1525
ウズベク 1 128 9 62 39 23 85 928
カ ザ フ ー 19 210 29】82 49 33 177 2042
66 8 51 13 38 56 925
1 ロ 61 10 60 11 49 122を1029
リトワニア ー
モルダヴィ _ ア 3 21 9 12 35 710
キルギス ー L 92 15 3 15 13 2 35 528 タジク】■
318 21 2 33 466
言:ニ言:i二
エストニアF- 15 27 26210
合計r20 8rlO 6 1203096538」19巾 1127 3700341101 u
資料:CCCP AAMHmlCTpaTHBHO・TeppHTOPHaJlhHOe neJleHHe,1974.cTp.8.
七
岡法(31-2)l02
七二
なお、地方ソヴュトにははいらないが、都市の住民による一種の自治組織ともいえる家屋委員会(国有住宅団地単
位) や街区委員会あるいは街路委員会も存在し、我が国の町内会や自治会と対比して考えられる場合もあるようであ
る。これらについては後に触れる。
以上、各種地方単位の概要についてみてきたので、ここで一九七四年当時の各々の共和国別の数を表にしてみよう
(真一)。もちろん各々の数には時期によって増減があるが、戦後の全体的な傾向としては、行政能率を追求して合
併が繰り返されてきたといえる。その詳細についての資料は入手することができなかったが、たとえば地区は戦前四、
(39)
0〇七あったものが三〇年余で千近く減っている。また、スターリン死亡直後にはじまった地方ソヴュト再編成の過程
(40)
のなかで、一九五四年から五七年にかけての四年間だけで、一〇〇の地区と約三四、000の村が整理され、その後も
(41)
地区と村を中心に五九年から六九拝の一〇咋間に地方ソヴュトの数は七、八一八も減少している。結局、殿郡郷制から
州・地区制への移行のあと、戦後復興が一段落した段階で第二の大規模な地方ソヴュト合併が行なわれたとみてよい
であろう。
さて、各級の地方組織の権力的中心となるのは、憲法上は人民代議員ソヴェト(三六年憲法では勤労者代表ソヴユ
(42)
ト) である。いま七七年憲法をみると、その第二条はまず主権在民を謳ったあと、「人民は、ソ連邦の政治的基礎を
六条は、「地方人民代議員諸ソヴェトは、……
なす人民代議員ソヴュト(複数形 - 筆者註) をつうじて、国家権力を行使する。その他のすべての国家機関は、人
民代議員ソヴュトの統制(チェックや監督のこと - 筆者註)に服し、これに対して報告義務を負う」と定めている。
そして第八九条では、ソ連邦最高ソヴュトから市や地区、村の人民代議員ソヴュトを等しく国家権力機関と位置づけ、
これらもろもろの国家権力機関は「単一の体系(または体制)」 e白日∃0 ⊆CTe≡を構成すると定めて、ソ連がコ
ミューン型国家であることを宣言している。しかし、これだけでは各種ソヴュト問の関係が明確ではないので、一四
地方的意義をもつすべての問題を解決」すると述べつつ、「上級の国
193 ソ連における地方自治
家機関の決定を実施し、下級の人民代議員ソヴュトの活動を指導」すると規定して、諸ソヴュト閲に単なる記述の便
宜によるのではない、実質的な上下関係のあることを定めている。この上級下級の関係について憲法は具体的な定義
を行なっていないが、それが第三図に示されたものであることはいうまでもない。もっとも、一四六条は、地方ソヴ
ュトが「共和国的および全連邦的意義をもつ問題の討議に参加し、それらについて提案を行なう」として、コミュー
ン型国家の理念が失われたわけではないことを示そうとしている。はたしてそうであるかどうか、それはのちに明ら
かになるであろう。
いずれにせよ、地方的自治の中心は人民代議員ソヴュト (勤労者代議員ソヴュト) であるというのが憲法上の規定
である。そして各級の地方ソヴュトは二年半の任期を有する代議員によって構成される (九〇条、ただし、七六年ま
では任期二年であった)。選挙は十八歳以上の成人による普通平等直接速挙制にもとづき、二一歳 (七六年までは二
三歳) 以上のソ連市良はすべて被選挙権を有する (九五条-九七条)。しかし、選挙は我が国におけるように自発的
に立候補した候補者集団のなかから有権者が選択するという形をとらない。候補者は、共産党や労組、コムソモール、
工場やコルホーズ、ソホーズといった諸団体、諸組織の推薦を得なければならない (一〇〇条)。そしてこの推薦の
過程で一つの選挙区で立つ候補者が一人に絞られ、事実上の信任投票になってしまうことはよく知られているとおり
である。このような選挙過程の詳細な分析はもちろんまだないが、それでもケーススタディを含めたいくつかの研究
もでており、おおよその様子はつかめる。
ソ連では我が国やアメリカの一部の白治体にみられるような公選の首長制は存在しないから、選挙は人民代議員ソ
ヴュトについてのみ行なわれる。制度上は個々の代議員のリコールは可能であるが、ソヴュトの解散ということはな
い。こうしてソ連では二年半ごとに統一地方選挙が行なわれることになる。投票日や選挙区は連邦構成共和国の最高
ソヴュトが決定する。それと平行して先述の各種団体は大衆的討議によって候補者を推薦することになっている。し
七三
岡法(31-2)19l
七四
かし、六九年の勤労者代議員ソヴェト選挙を中心とする研究を行なったE・M・ジェィコブによると、実際に人物の
選定にあたって中心的役割を果すのはそれぞれの組織における共産党の中核組織である。そして各組織ごとの選抜過
程はその地域の党組織によって調整・監督される。フォーマルな候補者の指名は各種組織ごとの大衆集会の席で行な
われるが、実際には党のオルガナイザーと各組織の代表とによる小きな会合の席で候補者一人に絞られ、それが地域
(43)
内の各団体によって受容されるという形になる。各選挙区の定数は一名であるから、結局有権者はこのただ一人の候
補者の当否を判断するよりほかはなくなるわけである。周知のごとく、投票用紙にはこの一名の候補者の名前が印刷
されており、賛成するものはそのまま投票箱に投じ、異論のあるものはカーテンで仕切られたブースの中で投票用紙
に×印をつけるなりしてから投票する。したがって投票の秘密は事実上保障されない。当然不信任票はきわめて少な
(44)
く、六七年および六九年の選挙ではいずれも平均して〇・五%以下であった。もっとも批判票の率は都市部では若干
高く、郡部特に地区レベルでは低いといぅ憤向の違いはあるが、なにしろ〇・一%から〇・二%の差ということでそ
れほど意味があることとは思われない。
このように選挙は(地方選でも最高ソヴェトの選挙でも同じことである)一種の儀式にすぎないものになってしまっ
ているが、しかしそのことはソヴェトの選挙が軽視されているということを意味しはしない。むしろ選挙には独特の
観点から大きな注意が払われているようである。そのことを示す第一の現象はきわめて高い投票率である。たとえば一
(45)
九七七年統一地方選挙では、各級ソヴュトとも九九・九七%から九九・九九%の投票率を示している。メドヴュージ
(46)
ェフの指摘しているような不正投票(たとえば選挙委員会が棄権者にかわって勝手に投票してしまうやりかた) がい
つでもどこでも行なわれているわけではないと仮定するなら、またオーストラリアにおけるような理由なき棄権に対
する罰金という手段が用いられているわけでもないということを考慮するなら、この数値はいささか異常というべき
である。なぜこのような高率になるのか、その理由を特定することはむずかしい。しばしば言われているように、棄
195 ソ連における地方自治
もっとも、自分自身こうした選挙委員会の活動に長年携わった経験のあるソ連からの出国者Ⅴ・ザラフスキーた
ちが、自己の体験と同様な過去をもつソ連からの出国者たちへの面接調査をもとに近年行なった研究によって、一〇
(鵬)
○%近い投票率には実は抜け穴があることがわかってきた。それによると、まず、憲法上の有資格者すべてが選挙人
名簿に登録きれているわけではないらしい。登録は、選挙委員会の運動員が警察と住宅局との協力でつくられたリス
トをもとに個々の有権者の意思を確めて作成するのだが、何らかの地方的不満を理由に (まれには反対制的見地か
ら)登録を拒否するものがいるという。しかしさらに重要なのは遠隔地投票制度である。ソ連では、投票日当日何か
の理由で所属投票区におれない場合には、どこの投票所でも投票できる不在証明書が発行され、これが高投票率の理由
の一つにあげられてきた。しかし、ザラフスキーらの研究によるとわざわざ遠地で実際に投票するものは稀である
という(誰がどこで投票したのかまでは調べられない)。そして投票日は必ず日曜日と定められているので、不在証
明書の人気は高く、たとえば一九七四年夏の選挙の場合、レニングラードのある投票区では四三%もの選挙人がこれ
を利用した。かくて九九%の投票率というのは、選挙人名簿に登録されており、かつ不在証明書の発行を受けなかっ
た有権者の九九%ということになり、実際に投票するのは法律上の有権者のうち四分の三ぐらいということになるよ
七五
権は反体制的ないしはそれに類する行為であると当局に印象づけることによって不利益をもたらしかねないという心
理的恐怖が行き渡っているからということもあるかもしれない。あるいは逆に投票を義務と心得る人が多くなってい
ることもあるかもしれない。しかし、常識的に考えるなら、それでも病気であったり所用で遠くへ出かけているとか、
その他やむを得ない事情で投票場へ行けない人が一〇%程度は存在するというのがアメリカなどの都市型社会での常
識であろう。これに関してソ連では、病人に対しては在宅投票の便宜が与えられ、船舶や在外公館にも投票所が設け
られる。そして、年後になっても投票しない者には電話がかけられ、選挙委員会の末端運動員が投票の督促にまわるな
ど徹底した棄権防止策がとら
岡法(31-2)18¢
七六
うである。ただ、そのような事実があるとしても、やはり投票率向上に大きな関心が払われていることには変わりが
ないであろう。
また、六一年の党綱領で、できるだけ多くの勤労者が国家の運営に習熟するよう、代議員の少なくとも二分の一以
上は新人とすべきであると定められていらい、地方代議員の改選率は非常に高く、七五年選挙の平均で約四五%に達
(50)
(49)
する (七七年にはロシア共和国で約五一%)。つまり代議員の入れ替りは徹しいのであるが、他方でいくつかの分類
でみた場合、その構成比率にはかなり高い安定性がみられる。たとえば婦人の被代表率は六〇年代に改茸されてくる
のだが、ロシア共和国でもイスラム包の強い諸共和国でも、あるいはバルト三国でも、全代議員中の女性の比率はは
ぽ同率になっている (六三年には四〇%前後、六九年には四五%前後)。また、共産党員(および同候補) の占める
割合は六九年の場合どの共和国でも四五%前後となっている。各民族の被代表性も、ある程度混桂が進んでいるにも
M弧円
かかわらず、経年的にそれほど大きな変化はみられない。こうしたことはいずれも、ソヴュトの社会的基盤を拡大し
ようという努力の表われであるが、他方からみるなら、全国的規模で一定の基準を達成すべく、強力な介入と調整が
行なわれていることを予想させるものである。
では、半ば儀式化した選挙 (それは最高ソヴェト選挙の場合も同様である) に何故かくも精力が注がれるのであろ
うか。選挙の主たる機維はどこに求められているのであろうか。一般にソ連に批判的な立場からは、選挙はたんなる
正当化手続にすぎないという考え方が一般的であるようである。また、選挙キャンペーンが政策上の争点を問題とす
るものでも、候補者個人の美点を売り込むものでもなく、もっぱらソヴェト休制の賞揚に終始するところから、市民
の政治的教化とプロパガンダを主たる機能とするという意見も多い。しかし、婦人の代表比率を高めるなど、ソ連なり
の民主主義的機能が期待されていることもまた事実であろう。他方、ザラフスキ1たちによると、選挙委員と有権
者との直接接触という方式を通じて、道路修理や公営アパートの雨漏り対策といった日常皿小間題に関する住民の不
l帥 ソ連における地方自治
満を吸い上げたり、一種の住民動態調査を行なえるといった機能、さらには選挙委員会活動を通じて党員候補の苦茶、
(52)
褒賞を行なう機能などが重要なのだという。しかし、いずれにしてもこうした機能は勤労者代表ないし住民代表の選
出と統制という本来期待きれるべき機能に結びつくものではない。そしてこの本来の機能が形骸化しているというこ
とは、とりもなおきず憲法一四六条によって「地方的意義をもつすべての問題を解決」する栴能を与えられた代議員ソ
ヴヱトの地位の形骸化につながるものである。確かにスターリン時代には地方の党書記が全権を振り、代議員ソヴュト
の開催自体がなおざりにきれることも稀ではなかったことから考えると、事態はかなり改善されてきているといえる。
しかしにもかかわらず地方の権力構造におけるその地位は憲法が謳っているようなものにはなっていないというべき
であろう。そして実際の権限は、連邦レヴュルから村、市レゲエルまで執行委員会が纏っているといわれている。地
方レヴェルに限ってみても、代議員ソヴュトはイギリスやフランスの自治体とは違ってみずから常任委員会を通じて
決定と執行の両方を握るという構造には伝統的になっていない。そのかわりに執行・処分機関として (憲法一四九条)
執行委員会を選出することになっているわけだが、会期の短いソヴヱトと違って、こちらの方が執行のみならず決定
の中心でもあるという状態が今日まで続いているのである。
しかしながら、地方における意思決定の構造は実際にはもっと複雑である。まず第一に、二重の従属理論によって、
執行委員会は「上級の執行・処分機関に対しても直接に報告義務(三六年憲法一〇一条では責任という言葉が用いら
れていた)」を負う(七七年憲法一五〇条)。第二に、地方ソヴュトの管轄区域にありながら、指揮命令系統としては
上級機関に属する大企業などとの関係がある。第三には、七七年憲法によって「ソヴヱト社会の指導的かつ簡導的な力、
ソヴヱト社会の政治制度、国家機関と社会団体の中核」 (六条)と位置づけられるに至った共産党の存在がある。ソ
連における今日の地方自治について考えるには、こうした要因を考慮に入れて現実の意思決定過程を調べてみる必要
があろう。もとよりそうした研究は多くはないが、幸いにもフロリックによる現地での調査研究など、いくつかの業
七七
岡法(31-2)198
七八
蹟が存在する。そこでこうした研究に依拠して意思決定のあり方を探ってみよう。それには議論を二、三の重要な領
域に限定する必要がある。
まず予算編成過程についてみてみよう。ソ連では国家(諸ソヴェト権力) が大部分の経済生活に直接責任を負って
いる関係上、予算の重要性は西側諸国におけるよりもはるかに大きい。たとえば一九七三年の場合、ソ連の定義によ
(53)
る国民所得のうち、実に五五・七%が中央、共和国、地方各政府の歳入になっている。しかも、予算は経済計画を財
政面で裏づけるものであり、逆に、歳入歳出は国有経済部門の活動によって大きく規定されるから、予算編成過程は経
済計画の編成過程と密接な相互連関性をもつことになる。そしてソ連では、あたかもソ連全体が一つの企業であるか
のごとく、国民経済は中央における統一された計画に従って集権的に運営されることになっているから、財政面でも当
然中央集権が層別となる。かくて共和国の支出も地方機関の支出も、すべて全連邦境南ソヴェトで議決される国家予
算書のなかにその根拠を有することになる。このことは、主要項目の支出については中央の認可が必要とされること
(55)
(54)
を意味する。国家予算のうち各共和国に割り当てられる分は年によって違うが、一九七三年には四七・八%であった。
地方予算は大部分このなかから賄われる。こうして下級機関になるほどその従属的性格は強まるわけである。
しかし他方でこのことは、ソ連において中央集権化が極限に達していることを意味するるものではない。基本とな
る経済計画自体が、相互依存的な無数の変数間に最適解を求めることの非現実性や、中、長期計画と担当者の実績評価
の基準たる短期プランとの矛盾などによってあくまで完全な集権体制を貫こうとすれば自己破壊的な結果に陥る危険
(56)
性をもつ。しかし、現実にはソ連経済はまがりなりにも発展している。A・ノーヴが指摘しているように、それは「中
(57)
央のプランナーが実際には細かな決定については大部分これを行なわない」ことによってのみ可能である。とりもな
おさずそれは何らかの分権化を意味する。下級単位(省、共和国、企業、地方政府など) は一定の自律性を獲得する。
ただ、壊終決定植の基本的部分が依然として上級機関に握られているから、下級機関は一種の利益集団的性格をも
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ち、圧力と交渉による決定というパターンがうまれる。あるいはこれを各種機関の幹部=官僚聞のかけ引きとみた
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てることも可能である。近年中央-地方のソ連政治に圧力集団論や官僚政治モデルの適用が試られる所似である。か
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くて地方自治の問題も、そのなかの財政の問題も、ノーヴが適切にも「集権化された多元主義」宛ntra-iNed p-ur巴ism
と名づけた集権化性向と分権化性向の交錯のなかに位置づけてみる必要がある。
ただし、これまでの論議では重要なファクタ1が抜け落ちている。それは共産党の存在である。いうまでもなくソ
連の政治は共産党を抜きにしては語れない。共産党は各級各種機関の幹部に多くの党員を送り込んでいる (そして上
級になるほど党員比率はあがる) だけでなく、それ自体が事実上優越的な決定主体となっている。しかし、発と国家
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との実際の関係を理解することは大変むずかしく、ソ連内部においても種々の論議があるという。したがって本稿で
はただ共産党を国家機関化した一つの当事者と考えるにとどめておく。いずれにせよ覚は共和国から村に至る各級ソ
ヴュトに必ず対応するように委員会を構成しており、それ自体地方政府の構成要素になっていると考えてもさほどま
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ちがっていないであろう。
(62) いま主としてフロリックの研究に依拠して市の予算過程をみてみよう。市の予算に責任をもつのは市ソヴュト執行
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委員会に直属する財務局 (ゴルフォ) である。ゴルフォの幹部は主要局の場合いつでもそうであるように、通常党員
であり(ただし専従ではない)、またその長は執行委員会に席を占める。彼らは中央-地方の国家財務機関をわたり
あるくが、他の部局長同様党の推薦によって上級機関から派遣される。そして執行委貝になるために (ということは
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ソヴュトの代議員に選ばれねばならない)地方ソヴュトの選挙区を割り当てられる。
予算編成過程は、まずゴルフォと執行委員会の非公式な討論による枠組みづくりからはじまる。この枠組は上級レ
ベルの覚および国家機関(中央改府や共和国)が既に定めている基礎的ガイドラインの数値に拘束される。したがって
枠組はこうしたガイドラインに示される優先順位や部門別の増減プランを反映したものとなる。そしてこの枠組が各
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部局に示されると、部局は年初にその枠組に納まる予算見碩をゴルフォに提出する。これを受けてゴルフォは統一的
な予算案をつくるわけだが、その過程で上級ソヴェトの財務部門(当該ゴルフォが共和国直属市のものであれぼ共和国
財務省)との相談が行なわれれる。それは市の歳入の九〇%以上を依存する (市には、市が管理する国有企業の利潤
の一部などが留保される)上級機関の配分意向を確かめ、またのちにどの程度上級機関との交渉の余地が残されてい
るかを腹づもりしておくためである。さらにゴルフォと市計画委員会(ゴルブラン)が会合して予算案と市計画案と
の整合性を確保する。こうして五月に予算案は執行委員会に提出きれて審議される。執行委員会はゴルフォやゴルプ
ランその他の部局の長および区執行委員会議長(区長に相当)、さらには党幹部と会って予算案を討議し、必要な変
更を加える。この間、ゴルフォを通じて上級財務機関の意向が作用することに注意せねばならない。
このようにしてまとめられた市側の予算案は八月に上級財務機関に送られる。いまその機関が北ハ和周財務省である
とするなら、同省は市から送られてきた予算案を検討し、閣僚会議や諸々の省、委員会と協議する。その間必ず減甑
修正がほどこされるが、それに際してはもう一度ゴルフォ幹部も意見を聴取される。そして秋のはじめには最終予算
案がつくられ、市執行委員会に渡される。市側としては法的にはこの境終草案に異議を申し立てることができるが、
通常そうしたことは行なわれない。以後、市内部で多少の変更はなされるが、予算編成過程は事実上これで終わる。
予算案は執行委員会の手によって代議員ソヴェトの十二月会期に提出される。代議員ソヴヱトでは通常たいした議論
もなく全員一致で承認される。
このような予算編成過程において目につくのは、上級機関(共和国財務省など) が市財故に対して強力な統制を加
えており、市の財政自主権は財源の面でも個々の事項の審議の面でも大きく制約されていることである。上級機関に
ょる歳出削減措置に対して市側は正面切っては殆んど対抗できず、わずかにインフォーマルな交渉の余地が若干残さ
れている程度である。ゴルフォ自体が、再を代表して上級機関と交渉する立場にある反面、その幹部が北ハ和国財務省
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より派遣されることから、どうしても市に対する忠誠心は薄くなる。ゴルフォはむしろ市執行委員会との調整のなか
で後者を制約する役割を果たす。市代議員ソヴュトがこの間ほとんど何の役割も演じないことも目につく点である。行
政幹部でない普通の代議員には予算編成のような重要案件について発言する機会は、常任委員会においてすらほとん
ど与えられていないし、また新人が多くしかも(イギリスのように)自分の本職をもった、いわばパートタイムの代
議且である彼らには予算を論ずる十分な能力もない。
さて、では党(地方の党委員会) はいかなる役割を果たしているのであろうか。フロリックの面接調査によれば、
地方予算の元締めである共和国レヴュルでは、党は財務省に基本的な優先順位とガイドラインを示すだけで、具体的
な予算編成はこの優先順位が(多分中央の政治局の動きなどにより)突然に変わるといった場合を除いて大体において
財務省にまかされる (もっとも財務省高官もまた党員であり、党と省との境界はいまひとつはっきり理解できない)。
他方、党は市レベルでも主として五つの面で統制を及ぼす。第一に、市の覚第一書記をはじめとする幹部は市執行委
員会のメンバーにもなっており、彼らが編成過程を通じて覚を代表する。第二に、逆に執行委員会の主要メンバーは
党且である。第三に、財務行政に限ったことではないが、地方共産党はますます各種専門家を内部にかかえるように
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なってきており、その専門熊力を通じ市の行政官に助言や情報を与える。第四に、覚は代議員の訓練を援助し、予算
の基本的特徴を教えるとともに、それをどう選挙民に伝えるかを教える。第五に、党は市内部でコンフリクトが生じ
た場合の超越的調停者であり、また各部門に対して絶えずその働きをチェックする立場にある。では市の党機関、と
くに第一書記の意向と上級行政機関、たとえば共和国財務省の指令とのあいだに対立が生じた場合はどうなるか。そ
のような場合についての研究は見当らないが、おそらく共和国レベルの党の介入によって解決されるものと思われ
る。
以上のような予算編成過程にあらわれた諸々のパターンは、基本的には他のどの行政故域にも妥当するはずである。
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しかし、とくに都市行政の大規模化、複雑化は厳格な中央統制をますます困難にし、逆に市側の能動的対応の余地が
しだいに増大していることだけは確かである。たとえば、市の計画案作成過程は予算編成過程と表裏の関係にあるの
だが、それでも市と上級機関との間には予算の場合よりもコンフリクトが多く生じ、したがって交渉が多くなり、ひ (66)
いては市機関のオートノミーも大きい。市の党委員会もより活発に動く。しかし、領域がより現業的性格を多く持つ
ようになると別の困難も生じてくる。それは上級レベルの機関が管理する企業その他の組織との関係である。たとえば
都市計画を作成するにあた「て、ある土地の用途をめぐって中央省庁直属の企業と市当局との間に対立が生じた場合
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勝利をおきめるのは常に前者である。市当局は結局有力企業に優良な用地を捏供する役回りを演ずるだけである。有
力な企業はまた、自己の従業員のためにかなりの住宅を建設しており、託児所や保養所などを経営している。重要な
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地位を与えられている企業や機関に勤務するものの子供はめぐまれた環境と施設をもった託児所で保護を受ける。ソ
連の地方(特に都巾)行政において最も力が注がれている分野の一つである住宅にしても、建設コストを負担しうる
ものがその建築物を取得できる (厳密にいえば国家から無期限に借りられる) ため、財力があり、また地方ソヴュト
に対して大きな影響力をもっている企業や機関が有利となる。これらの組織は、その政治的、財政的刀によって、白
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ら有利な土地に、地方ソヴェトが管理する国営アパートよりも質のよい住宅を建設する。しかも彼らは通常市の総合
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的再開発とか交通網、生活圏構想などに頓着しないため、都市計画自体が阻害されるという。こうして意思決定点が
分散しているため、柿の計画当局の力は大きく制約きれ (スタッフが少ないということもあるらしい)、プランナー
は最善の場合でも説得を通じて経済的、政治的利害を調整して協働せしめる以上のことはなしえないのが実情だとい
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われている。地方ソヴュトは、「地方的意義をもつすべての間組を解決」する能力(七七年憲法一四六条)を有して
いるわけではないのである。
これまで述べてきたような執行部優位、二重の従属原則 - 民主集中制原則に基づく厳格な中央集権制とそれに対
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する事実上の多元化風向との�